AI翻訳があるのに、なぜ英語を学ぶのか?(3)
講演者:厚木市立鳶尾小学校 総括教諭 成田 潤也さん
日本翻訳連盟主催の 2025 年翻訳祭から選りすぐった講演の抄録をお届けします。今回は、厚木市立鳶尾小学校総括教諭の成田潤也さんによる「AI翻訳があるのに、なぜ英語を学ぶのか?」の第3回です。引き続き、長年にわたる小学校での現場実践と研究に基づいて、AI時代における、言語(英語)習得だけに終始しない言語教育の目的と本質を考えていきます。
●機械翻訳を前提とした学校の外国語教育の今後
機械翻訳を前提とした小学校の外国語教育のこれからを考えた時、小学校に限らず中学、高校、大学もそうだと思いますが、例えば外国語学習から国際交流活動ではなくて、まず国際交流活動してから外国語学習へとなると、これは人間関係形成を醸成するよい学びであるでしょう。
また、その言語の俯瞰視、「やさしい日本語」の視点の獲得というところでいうならば、言語の学びプラス相手意識、人権意識が生まれる。日本で暮らす外国人の方々にどんな日本語を喋るべきなのかということがわかる、人権意識です。
そして、機械翻訳をただ自分の私利私欲だけのためではなくて、相互作用的に学習や実務やコミュニケーションに適切に利用していく人材を育成していく、機械翻訳リテラシーや自立した学習者としての観点です。
こういったものは、実はOECD(経済協力開発機構)の「キー・コンピテンシー」、多様な集団における人間関係形成能力とか社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力、自立的に行動する能力と、まさに重なる部分かと思います。
つまり、英語そのものをマスターして終わりという学びではなく、その先にある汎用的な能力につながっていく。だから英語を学ぶことに意義があるし、その先を見据えて指導していかなればいけないと思います。
●支援としての機械翻訳使用
支援としての機械翻訳使用という話が前に出ましたが、下図のような4つの事例があります。

① 母語使用の機会の提供
普段であれば抑圧されている自分自身の母語を発揮する、解放する手助けをすることができるということが1つです。
そして、ここに挙げた残り3つは、この研究の過程で知り合った大阪の小学校の先生の実践なんですが、機械翻訳を使いながら非常にユニバーサルな授業を実現されておりました。
② アプリ『UDトーク』×授業
クラスの中に中国からの転入生がいて、この子は日本語は全くわからないのですが、他の子どもたちと一緒に授業を受けています。「UDトーク」というアプリで、担任の先生の教科書の範読が日本語と同時に中国語に翻訳され、文字起こしされて、この子の手元の端末が動いているんです。このアプリを使うことによって、この子は他の教室で学ぶのではなく、みんなと同じ空間で一緒に勉強することができています。

③ アプリ『Smilingual』×雑談
休み時間には子どもたちが『Smilingual』という翻訳アプリを使って雑談しています。このツールを子どもたちに委ねることによって、休み時間の雑談すら、言語の壁を超えて実現させてしまっています。
④ アプリ『Google翻訳』×テスト
社会科のテストでは、Google翻訳のカメラ機能を使うことによって、日本語の問題文を中国語に翻訳をして日本語で答えています。この子は日本語ができないだけで、同年代の社会の学習はちゃんと理解できているのです。
これまでそれをきちんと切り分けることができなかったために、外国籍の子どもが、知的に遅れがあるのではないかといって特別支援学級に措置されてしまうというケースが後を絶ちません。文科省もこのことを問題視していて、全国調査で、特別支援学級の中に外国籍の子どもがどれだけいるかという調査項目が加わったぐらいなのですが、こういうことも機械翻訳をうまく使ってあげれば、みんなと同じ学習ができて、同じ評価を得ることができるわけですね。非常にユニバーサルな取り組みだと思います。
●機械翻訳が支援ツールとして理解される社会へ
私は、「機械翻訳が眼鏡になる社会」が来てほしいなと思っています。近視用でも遠視用でも眼鏡を、誰しもが支援ツールとして適切であると認めています。つまり眼鏡というのは、顔面に数万円のデバイスをかけているわけで、これをずるいという人は誰もいないですよね。なぜかというと、それが必要な支援だとみんなが認めているからです。
であるならば、機械翻訳も同じように、その子の学びにとって、生活にとって必要なツールであるとみんなが認める、優しい社会になってほしい。
その実現のためには、機械翻訳が英語習得のためとか、領域特化ではなく、「豊かな言語の学び」の体験と、AI翻訳が人々を幸せにする、豊かにするためのツールでありテクノロジーなのだということをきちんと理解して、正しく使いこなしていける子どもたちを育てていかなければいけない。それは大きくなってからではなくて、小学校段階から必要だろうと思っています。
●育てたいのは「自立的な生涯外国語学習者」
話がちょっと逸れますけれども、スイスの一部の地域で行われている「Passepartou(パスパルトゥー)」という言語教育改革プロジェクトがあります。これも私の研究の過程で出合ったとても興味深い取り組みです。
スイスの子どもたちは学校の中では母語のドイツ語を喋っているのですが、国境を接しているフランス語も当然彼らにとって必要な言語です。だから小学校3、4年生になったらフランス語を、5年生以降は英語を学びます。小学校段階で母語に加えて2つの外国語を学ぶという取り組みです。こうして言語に対する知覚を鋭くし、分析し、考察し、文脈の中に位置づけられるようにする、文化の諸側面を発見し、整理し、他の文化に対して開かれた心を持てるようになることを目指しています。
パスパルトゥーという名前は、フランス語で「どこでも通れるもの」という意味です。つまりは通行証とか合鍵とかマスターキーのことを意味します。言語を複数学んでいくという取り組みが、さまざまな言語やさまざまな文化を開いていくためのマスターキーになり得るのだということなのです。
私はこの話を聞いた時に、私が外国語教育でやりたかったことはこういうことだなとすごく共感しました。私が育てたいのは、「自立的な生涯外国語学習者」なのです。
英語話者を育てるというのは、これはこれで1つの価値があることではありますが、私は生涯にわたって人生をかけて外国語を学ぶのって悪くない、外国語を学ぶのは楽しいと思い続けてくれる子どもを育てたいと思っています。
ですから、私の授業を受けた子どもたちが将来、中国語やフランス語やロシア語に興味を持って花開いたとしても私は全く構わない。ただそれを学ぼうと思った時に、小学校で共に学んだ英語の授業の活動経験が原体験としてあればいいなと思っています。
英語話者になることも素晴らしいことだと思いつつ、その一方で、複数の言語を、その時その時の興味関心に応じて学んでいける子になってくれるといいなと思っています。
私自身は今46歳ですけれども、過去に海外で生活した経験がありません。外国語学習は実は中学校に入って初めて始めて、その時に出会ったのが英語だったわけですが、そこから30年以上にわたって英語学習をいまだに飽きずに続けています。いまだに続けているということそれ自体が、ネイティブのようにペラペラ喋れるということと同じぐらいに価値があることだと私は思っていて、そのことを子どもたちにもぜひ伝えたいなと思っているところです。
私は外国語の授業を始める時、最初に必ず「世の中にはさまざまな言語があるよ。7000を超える言語があるんだけれども、その中で先生が知っている、教えることができる外国語というのは、英語くらいしかありません。だから英語で授業はするけれど、英語以外にもたくさんの言語があることをぜひ知っていてほしいなと思います」というメッセージを伝えます。
これは英語教師としてのある種の諦観、悟りです。今までは「英語を教えられる」というのが美徳だったわけですが、このAI翻訳時代、多言語多文化共生時代において、「英語しか教えられない」というところに自分は至ってしまったのです。ですから、子どもたちにはさまざまな言語を学んでほしいと思いつつ、「先生は英語しか教えられないから、英語を教えるね」というようなメッセージを送るようにしています。
●外国語=英語ではない
伝えたいメッセージは、「外国語≠英語」です。
子どもたちは特にこれを言わなければ、「外国語=英語」で閉じてしまうんです。他にもっといろいろな言語があるということは知ってはいても、それが自分にとって必要な言語とか学ぶべき言語であるとは思っていません。
ですから、可能性を排斥して英語だけ覚えればいいというメッセージではなく、英語を入口として、「さまざまな言語を開くマスターキーとして英語をまず学んでごらんよ」というメッセージを伝えたいなと思っています。

この上の文章を読めますか。この言語をマスターしている方でなければ読めないですよね。私も読めません。けれど機械翻訳にかけるとわかります。「外国語を知らないものは、自分の言語について何も知らない」というゲーテの言葉です。つまり、外国語を学ぶというのは、それで終わるのではなくて、外なる視点を手に入れたことによって翻って自分自身は何者かを見つめ直すためだということです。
己を知っているということは、おそらくこの国際社会に生きていく上で非常に重要なこと。その言語やその文化にかぶれることが国際人なのではなくて、その世界において己は何者かということを見つめ直せる人間こそが国際人なのだろうと私は思っています。これが、私が外国語教育を教える「WHY?」の1つです。
