日本翻訳連盟(JTF)

私の一冊:『曇る眼鏡を拭きながら』

第65回:韓国語翻訳者 原田 里美さん

『曇る眼鏡を拭きながら』くぼたのぞみ、斎藤真理子著、集英社、2023年

最近、視力の低下が著しい。近くは見えるが遠くがまったく見えず、駅の電光掲示板が霞んで見えないほどだ。今回「私の一冊」に選んだのは、くぼたのぞみさんと斎藤真理子さん、2人の翻訳家による往復書簡『曇る眼鏡を拭きながら』だ。

くぼたさんから始まる「雪の恋しい季節です」という一文から、故郷北海道につながり、斎藤さんの返信は「くぼたさん、東京が雪です」から故郷新潟につながる。そして、ことば、翻訳、詩、世界で起きていること、子育て、藤本和子にブローディガン、森崎和江と、話題は自由に飛んで戻ってを繰り返しながら、2人の人生経験や考えに結びつけて語られていく。

特に心に残ったのは、くぼたさんが学生時代に経験した、ストライキのときに起きたエピソードだ。「こんないい加減な表現でいいのか、こんないい加減なことばでいいのか、(中略)いまここでは熱気に駆られて、みんな、これを読んでも疑問に思わないかもしれないけど、時がたてば、ここにこうしているときのことなんか忘れられてしまうんだから、記録として残るのはこのビラ一枚なんだから、こんないい加減な文章でいいわけがない」という男子学生のことばにハッとしたと、くぼたさんは書く。何かが瞬間の効力を発揮したあとで、どんな時間が待っているのか、その響きの距離を想像するのは、言葉の鮮度とともに翻訳にとっても大切なのではないかと、私もハッとした。

私も見晴らしを手に入れたくて、何度も眼鏡を拭いてはいるが、そもそも度があわなくなってきているんじゃないかと疑っている。遠くが見えにくいのはチューニングが必要という合図なのかもしれない。せめて、度があっていないことに気づける人間でいられますように。言葉を扱う翻訳という仕事の重さに耐えるとき、曇りを払ってくれる眼鏡拭きのつもりで、本書をパソコンのそばに置きながらなんとか日々を乗り越えている。

◎執筆者プロフィール
原田里美(はらだ さとみ)
アートディレクター、グラフィックデザイナー、韓国語翻訳者。3rd bookshelfという自主レーベルで韓国のクリエイターのリトルプレスを翻訳、刊行し、読書会と詩の朗読会を開催する。共訳書『日刊イ・スラ 私たちのあいだの話』(イ・スラ著/朝日出版社)、訳書『私的な書店 -たったひとりのための本屋-』『「好き」な気持ちが私たちを救う』(チョン・ジヘ著/葉々社)がある。

★次回は韓日翻訳家の清水知佐子さんに「私の一冊」を紹介していただきます。

←私の一冊『翻訳書簡『赤毛のアン』をめぐる言葉の旅』

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